Bronx(ブロンクス)を代表するラッパー10選

Bronx(ブロンクス)を代表するラッパー10選
 

New York州New York市Bronxt地区を代表するラッパーを10人選出し、代表曲と共に紹介。HipHopが誕生した土地のラッパーを知りたい、と言う方には是非ご活用いただきたい。

Afrika Bambaataa


HipHop黎明期を支えたレジェンドの一人で、HipHopを「B-Boy/MC/DJ/グラフィティ、更にそこへ“知識”を加えた5つの要素からなるもの」と定義した人物。恐らく10代の頃だろうが、地元の最大手ギャンググループBlack Spadesのリーダー(「創設者」や「立ち上げメンバーの一人」という説もあるようだが確定的な情報が無いため、ここではこの表現に留めておく。)を務めていた。その後黒人社会の意識改革を行うために、「Universal Zulu Nation」を結成。ストリートの若者達から暴力を排除し、ギャングたちをHipHopカルチャーへ取り込む動きを見せる。

彼については厳密に言えばラッパーというよりDJやプロデューサーという印象が強いが、この男にそのような線引きをする意味はあまりないだろう。最も知られる曲としては、HipHop史上初めてRoland-TR808を使った歴史的作品“Planet Rock (1982年)”が挙げられ、ドラムとベースを譜面上完全に同時に鳴らすアイデアや、スネアを抜きクラップのみを用いる手法など、現在のHipHopサウンドに通じる発明もされた。

Melle Mel


社会的なリリックを盛り込んだ名曲“The Message (1982年)”で有名な、Grandmaster Flash & The Furious FiveのメインラッパーだったMelle Mel。とにかく「声がでかかった」ようで、その野太い声で繰り出すラップが強烈。“The Message”のヒットにより起こった関係者同士の金銭問題からグループは分裂、その後ソロとして“Chaka KhanI – Feel for You (1984年)”に客演し、同曲はグラミー賞にて「Best R&B Song」部門を受賞。と、この辺りがキャリアのピークだったか、それ以降は台頭してくる次世代のMC達を前にその存在感は失われていく。それでも未だHipHop史における重要人物であることは間違いなく、“Lady Gaga – World Family Tree (2006年)”や“Macklemore & Ryan Lewis – Downtown (2015年)”、“DJ Kay Slay – Hip Hop Frontline (2019年)”など現代のアーティストの作品にも客演として招かれている。

ちなみにGrandmaster Flash & The Furious Fiveには、前述のギャングBlack Spadesに所属していたKeef Cowboyと言うラッパーがいたのだが、彼が(ラップやパーティーでの合いの手として)使っていた「Hip-Hop」という言葉を、Afrika Bamabaataa達がこの文化を指す名称として採用。今我々が当然のように使っている「HipHop」という名は、こうして付けられた。

1984年グラミー賞「Best R&B Song」部門参照: https://www.grammy.com/grammys/awards/27th-annual-grammy-awards-1984

Grandmaster Caz


MC達に焦点を当てたドキュメンタリー映画「The Art Of Rap (2012年)」にて、劇中最も登場回数が多かった男Grandmaster Caz。彼もまた70年代から活動するレジェンドの一人で、年齢もMelle Melと同い年だ。(供に1961年生まれ。また前述の「Macklemore & Ryan Lewis – Downtown」「DJ Kay Slay – Hip Hop Frontline」にもMelと供に客演に招かれている)。この男の最も有名な曲を挙げるなら、映画「Wild Style (1983年)」のサウンドトラックに収録された“South Bronx Subway Rap”だろうか。それ以外にも地元で人気のラップグループThe Cold Crush Brothersのメンバーだったことや、史上初めてレコード化されたHipHop”Sugar Hill Gang – Rapper’s Delight (1979年)“ へのリリックの提供(厳密には勝手に使われた)も有名だ。この勝手に使われた経緯だが、Cazと非常に近しい存在だったBig Bank HankがSugar Hill Gangのメンバーとして引き抜かれた際、Cazのリリックを無許可で勝手に使用してしまった、というのがこの件の通説となっている。(実際曲中には、Cazの別名である“Casanova Fly”というリリックも登場する。)

現在Cazは、現地で行われているHipHopの歴史と名所を巡る観光ツアー「Hush Hip Hop Tours」のガイドや、様々な舞台芸術のイベントを開催する団体「The Kennedy Center」内に置かれたHipHop部門の評議会(「Kennedy Center Hip Hop Culture Council」)に参加するなど、HipHopのより文化的な部分に焦点を当てた活動をしている。

ちなみに90年代~2000年初期頃までとんねるずがやっていたTV番組で、木梨 憲武氏とブラザーコーン氏がNYにいるDJ Yutaka氏を尋ねる回があったが、その際Cazも登場しストリートでラップをする場面も放送された。(本記事執筆時の時点でその様子を録画した動画もアップされているが、公式によるものではないためリンクは割愛。)




Prince Whipper Whip




Prince Whipper Whip


70年代~80年代初期にかけてBronxで最も人気があったのは、Melle MelらからなるラップグループThe Furious Fiveだったようだが、次点でGrandmaster CazのグループThe Cold Crush Brothers、そしてThe Fantastic Five (Grandwizard Theodore & The Fantastic Five)が続いていた。The Furious Fiveは圧倒的な人気を誇っていたため、The Cold Crush BrothersとThe Fantastic Fiveが2番手の座を争うライバル関係にあり、コアなラップ集団である前者と、ルックスも良くダンスやハモりを取り入れ女性ファンが多かった後者と、タイプが異なる2大勢力が競い合っていたことになる。(“競い合っていた”と言っても、ビーフのような険悪さは無かったと思われる。)
そんな後者The Fantastic Fiveのメンバーであり、プエルトリコ系であることから、HipHopシーン初のラテン系ラッパーとも言われているのがPrince Whipper Whipだ。同グループはアルバムをリリースすること無く解散、Whipper Whip自身もアルバムのリリースは無く、正式にリリースされたレコードも非常に少ないため、本記事で紹介する他のラッパー達と比べると知名度があるとは言い難い存在ではある。それでもいち早く西海岸勢と接触し、ギャングスタラップの元祖Ice-Tの楽曲やMVに参加したり、日本を代表するレジェンドDJ Honda氏の楽曲にMelle Melと供に招かれるなど、当時の重要人物達と肩を並べる存在であることは間違い無い。ここでは2013年にUK盤のみリリースされているシングル”This Is HipHop”を挙げておくが、The Fantastic Five時代の音源については是非映画「Wild Style (1982年)」にて当時のライブ映像を確認して欲しい。

KRS-One


Bronx地区の別名「Boogie Down」をグループ名に用いた「Boogie Down Productions (BDP)」のメンバーとして、アルバム「Criminal Minded (1987年)」でデビューしたKRS-One。筆者の主観も含まれるが、現代のHipHopファンの間でもこの辺りからアルバムや楽曲単位で語られることが多くなった時代と言え、HipHopを成立させた世代から見て一つ下の世代と考えて良いだろう。“Knowledge Reigns Supreme Over Nearly Everyone(知識はほとんどの者を支配する)”の頭文字を取ったMCネームからも分かる通り、独自の哲学を持った社会派なラッパーであり、それでいてハードな性格も持ち合わせていることから、未だに彼を崇拝しているファンも多い。

彼の活動について特筆すべきは「Stop the Violence Movement」と「Temple of Hip Hop」が挙げられる。前者はBDPが出演するライブ会場で喧嘩によりファンが死亡する事件や、メンバーのDJ Scott La Rockが銃弾によってこの世を去ってしまうなど、デビュー早々不幸な出来事が続いたことを受け、アフロアメリカン及びHipHopコミュニティから暴力を排除する目的で開始された。後者は文化としてのHipHopの維持・発展を目的としている。音楽面では、Marley Marl、MC ShanらQueens勢とのビーフも語られることが多く、86年に勃発したこの争いは「The Bridge Wars」と呼ばれ、HipHop史上初めて音源上でやり合ったビーフとも言われている。(発端はMC Shanがリリースした”The Bridge”の内容を、「HipHopはQueensから始まった」と主張しているものとBDP側が解釈し、反論したことによる。)

また、父親がジャマイカ人である影響からか、HipHopにおいてレゲエのようなフロウを取り入れた最初期の人物でもある。ここでは代表曲として、Queens勢を独特なフロウで攻撃する“The Bridge Is Over”を挙げておく。

Slick Rick


1965年にイギリスはロンドンで生まれ、その後1976年にBronxに移住してきたSlick Rick。Manhattanにあるアートと舞台芸術を専門に学ぶ高校「Fiorello H. LaGuardia High School of Music & the Arts」在学中に最初の相棒Dana Daneと出会い、他数名の仲間とThe Kangol Crewを結成。学内外で活動をするも恐らくそれほど大きな成果は得られなかったのだろう、1984年にビートボクシングの元祖Doug E. Freshに出会ったSlick Rickは、Fresh率いるGet Fresh Crewへ加わることに。ここからHipHopファンにはよく知られる彼の経歴がスタートする。(ちなみに当時のステージネームはMC Ricky D。)

代表曲としては、ストーリーテリングの先駆者とも言われる通り、ソロアルバム1作目からのシングルで犯罪に手を染める少年の姿を見事な物語に書き上げた“Children’s Story”を挙げたいところだが、ここでは人気を博すきっかけとなった“La Di Da Di”を挙げておく。Doug E. Fresh,のビートボックスに乗り、坂本九氏の“上を向いて歩こう”の替え歌まで飛び出すこの曲。そのあまりに個性的なサウンドのせいか、Snoop Dogg他多くのラッパーにもカバー/引用されている。

最も“美味しい時代”だったはずの90年代に2度逮捕された影響か、或いは時代の移り変わりについて行こうとしなかったのか、2000年代に入ってからは一切アルバムをリリースしていない彼。シングルや客演も非常に少ない状態だが、Mariah Careyのアルバム「Caution (2018年)」に収録された” Giving Me Life”に招かれたかと思えば、2019年6月には“Can’t Dance To A Track That Ain’t Got No Soul/Midas Touch”のミュージックビデオをリリース。また、Snoop Doggの新作アルバム「I Wanna Thank Me (2019年)」に収録された“So Misinformed”にも客演として招かれており、未だ現役MCとして存在感を放っている。

Fat Joe


Bronx勢を中心にNY市内の実力派が集ったクルー、D.I.T.C.(Diggin’ in the Crates Crew)へ加入しキャリアをスタートさせたFat Joe。1970年生まれで両親はプエルトリコとキューバ系。つまり彼もPrince Whipper Whipと同じくラテン系であり、ラティーノラッパーを代表する存在として知られている。(Fat Joeは“ソロのラティーノラッパーとして初めてメジャーレーベルと契約した人物”とも言われている。)93年にアルバム「Represent」をリリースしソロとしてデビュー、その後もソロ名義での活動を中心にリリースを続けながら、自身のクルーTerror Squadの結成、俳優業への挑戦など多方面に活躍。逮捕されたことや、アルバムのリリースが無い期間もあったが、今日まで比較的安定したキャリアを築いているように思われる。

その名の通りの巨体から繰り出される重量感のあるラップが痛快だが、ハードな曲だけでなくシンガーを招いた甘めの曲まで幅広いテーマをこなす器用さも持ち合わせており、その辺りが息の長いキャリアの秘訣とも言えそうだ。大流行したAshantiとの”What’s Luv? (2002年)”も良いが、この男の“ジャイアン”的なキャラクターが容易に想像出来るデビュー作からのシングル“Flow Joe (1993年)”は外せない。

Big Pun


そのFat Joeに“発掘”された男、Big Pun。1971年プエルトリコ系の家系に生まれ、90年代初頭よりFull-A-Clipsというラップグループのメンバーとしてアンダーグラウンドシーンで活動を開始。95年、Fat Joeの2作目のアルバム「Jealous One’s Envy」に収録された“”Watch Out””に客演として招かれたことで表舞台へ。その後HipHopの名門レーベルLoud Recordsから「Capital Punishment (1998年)」でデビューし、同作は翌年のグラミーにて「Best Rap Album」部門にノミネート、またラテン系ソロラッパーとして初の全米レコード協会によるプラチナム(100万枚以上のセールス)に認定された。更にFat Joe率いるTerror Squadへの加入・俳優業への挑戦と順調にキャリアを進めていくが、2000年2月肥満による心臓発作で還らぬ人に。この肥満については、一説では“幼少期の環境に起因する鬱病が原因”とも言われており、単なる“不摂生”という言葉では片付けられない事情があったように思われる。

Fat Joe以上にFatでBigな体型だったが、意外にもラップは繊細で、細かいラインミングが印象的。重量感のある声で繰り出されるテクニカルなラップ、またビートもスムースなものが多く、今聴いても独特な個性を感じられる。ここではそんな彼の魅力が詰まったデビュー曲、“I’m Not a Player (1998年)”を挙げておきたい。

また彼の息子の一人はChris Riversという名のラッパーとして活動しており、19年には父に宛てた曲”Sincerely Me (Official Big Pun Tribute)”をリリースし話題に。2世ラッパーは成功し辛いように思われるHipHopシーンだが、Punの意志を引き継ぐ存在として今後の動きに注目したい。

Cardi B


2019年現在、最も注目を浴びているBronxのラッパーと言えば間違いなくCardi Bだ。生まれはManhattanだがBronxで育ち、10代の頃から米国ギャング組織最大手の一つBloodsに所属。勤務するスーパーマーケットを解雇されたことを機にストリッパーへ転身し、その後SNSで人気を獲得し始める。2015年にはリアリティ番組「Love & Hip Hop: New York」に出演し、この辺りが本格的なキャリアのスタートと考えられ、同時にインディーレーベル/マネージメント会社の「KSR Group」に所属したタイミングと見て良いだろう。ラッパーとしても、同年リリースされた“Shaggy – Boom Boom (Remix)”への客演が最初期の楽曲と思われる。

15年から16年にかけては、複数のTV番組への出演に加え自身初のまとまった音源であるミックステープ「Gangsta Bitch Music  Vol.1」をリリース、またレーベル主催のコンピ「Underestimated: The Album」にも参加し基盤を固めていく。17年1月には「Gangsta Bitch Music  Vol.2」(恐らく当時から交際しており、後に夫になるOffsetとはここで初競演。)をリリースし、その後すぐにメジャーレーベルAtlantic Recordsと契約。この頃には人気化粧品ブランドMAC他有名ブランドとのコラボや、BET Awardへのノミネートなどもあり、すでにセレブリティ的なポジションになりつつあった彼女だが、そういった絶好な流れの中あの“Bodak Yellow”がリリースされた。同曲は、全米シングルチャートBillboard Hot 100にて、女性ソロラッパーとしては“Lauryn Hill – Doo Wop (That Thing) (1998年)”以来19年振りとなる1位を獲得。翌18年のグラミー賞では「Best Rap Performance」「Best Rap Song」部門にノミネートし、この曲をきっかけにあっと言う間にシーンのトップへ躍り出る。

更に彼女の勢いはその後も続き、“G-Eazy -No Limit”“Migos – MotorSport”という客演で招かれた曲もHot 100へチャートインしたことで、 史上三組目となる(ラッパーとしては初。他二組はThe BeatlesとAshanti)、「初めてチャートインした曲から3曲続けて同時に10位以内に入る」という快挙を成し遂げる。

満を持してリリースされたデビューアルバム「Invasion of Privacy (2018年)」も大ヒットを記録し全米アルバムチャートBillboard 200で1位を獲得、翌年のグラミーでは「Best Rap Album」部門を見事受賞した。Cardiはあまりにヤンチャなキャラクターとそれを前面に押し出した強気なラップ、逆境を跳ね除けハングリーに生きる女性像、SNSから人気に火が付いた点など、現代の需要に非常にマッチした存在と言え、それが短期間でこれだけの成功を収めた理由と言えるだろう。

3曲同時チャートインの記録参照: https://www.billboard.com/articles/columns/chart-beat/8085800/cardi-b-the-beatles-ashanti-hot-100-top-10

A Boogie Wit Da Hoodie


1995年生まれで、12~13歳頃からラップを始めたというA Boogie Wit Da Hoodie。彼もまた例に漏れず若くからストリートでのハスリングに身を投じてたようで、それを知った両親は彼をFlorida州へ送り出す。この地で学生時代の一時期を過ごし、その間にプロデューサーMyster Whyte と出会い、初のレコーディング曲“Temporary (2014年)”を制作・公開。(彼の楽曲からどこか南部らしさを感じるのは、この辺りの経緯が影響しているのかも知れない。)

2015年にはBronxへ戻り、地元の友人達とレーベルHighbridge Labelを設立し本格的な音楽活動を開始。自身初のミックステープ「Artist (2016年)」、レーベルメイトであり地元の盟友Don Qとの共作「Highbridge the Label:The Takeover Vol.1 (2016年)」を立て続けにリリースし、Atlantic Recordsと契約。

正式なデビューアルバムとなった「The Bigger Artist (2017年)」はBillboard 200で最高4位を獲得、全米レコード協会よりプラチナムに認定されている。
翌18年には2作目のアルバム「Hoodie SZN」をリリースし、こちらはBillboard 200で1位を獲得。彼もまたほんの数年で全米トップにまで登りつめる。と同時にBronxからもこういったメロディアスなフロウのラッパー=本来のHipHopとは大きくかけ離れたタイプのラッパーが誕生していることをシーンに示しており、現代のシーンを象徴する点も随所に感じられるような存在だ。

HipHopに関連する多くのアーティストが生まれた土地Bronx

今回はBronxを代表するラッパーを10名紹介した。HipHopが産声を上げた土地であることから特に黎明期~シーン初期の重要人物を多めに選出したが、HipHopの誕生に携わったレジェンド達や当時の楽曲、またHipHopそのものの歴史についても改めて目を向けるきっかけにしていただけたら幸いだ。またラッパー以外にも、HipHopをまさに“生んだその人”であるDJ Kool Hercや、DJ Grandmaster Flash、R&B/ポップシンガーでJ-LoことJennifer LopezなどもBronx出身で、彼らもまたHipHopを知る上では無視出来ない存在と言えよう。
膨大な歴史が詰まったNew YorkはBronx、あなたも掘り下げてみてはいかがだろうか?